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Faculty Voice Series Episode 4. Patrick Dougherty 教授

学生のみなさんが教室で見る教員の姿、そして、本学を目指す受験生が、パンフレットや著書から知る教員の姿は、ほんの一面でしかないのかもしれません。
そこで、Faculty Voice Seriesをスタートし、本学の教員の真の姿に迫るエッセイをリレー形式でお届けすることにしました。 専門分野や研究内容だけでなく、趣味、人生観、若き日の想い出など、様々な角度から語られるそれぞれの教員の人柄に、ぜひ触れてみてください。

Episode 4.は、Patrick Dougherty(パトリック・ドーティ)教授です。

Click here for the English version of the message.

ノーザンアリゾナ大学で教育学の博士号を取得し、1989年からアメリカをはじめバングラデシュ、アラブ首長国連邦、そして日本と、様々な地で長きにわたり教鞭を執っています。2013年9月より英語集中プログラムの代表として着任し、現在は本学の学務部長兼英語集中プログラム・外国語教育代表として学生の指導に当たっています。

今回のテーマは「若き日の葛藤」です。

パトリック・ドーティ教授の写真

The Decision to Stay

自己紹介

私の名前はパトリック・ドーティ。アメリカのミシガン州ブキャナンという、地方の小さな町で育った。

大学はオレゴン州のポートランド大学に進学し、そこで歴史学を専攻するとともに副専攻として英文学を学んだ。卒業後はノーザンアリゾナ大学で歴史学及び教育学の修士号及び教育学の博士号を取得したほか、応用言語学の修士号をオーストラリアのサザンクイーンズランド大学で取得した。

7人のきょうだいとともに育ち、後に3人の義理のきょうだいも家族に加わった。両親はともに教員であり、私も文字どおり、両親の歩んだ道をたどった。

The Decision to Stay(留まる決断)

1989年に、私はノーザンアリゾナ大学で西アメリカ史のMAを取得し、同時に、高校教員免許を取得する要件を満たした。高校で生物学と社会科を教えていた父と、数学と体育の教師だった母と同じ道を歩んでいたのだ。

この話はその直後、私が教師としてのキャリアを始めた最初の一年の、着任してわずか数週間後に起こった出来事である。

大学院生の時にキャンパス近くで地元の高校生のチューターとして働いた経験から、当時、私は教員として“at risk kids”(学修支援が必要な子どもたち)に関わる仕事がしたいと思っていた。チューターだった私が接していたのが、学校の授業についていけず、中退する恐れのある“at risk students”だったのだ。彼ら彼女らにとって学業上の「最後の手段」というその立場は、性に合った。生徒たちに手を差し伸べ、励まし、そして学校に通い続けたいという本人の意志を目覚めさせる「ツボ」を見つけるのが得意だったし、何より私はその仕事にやりがいを感じていた。だからこそ、大学院にいる間に、教員免許を取得することにしたのだ。

修士課程修了後にat risk studentsと関わることができる職場を探していた私が見つけたのがアリゾナ州の州都フェニックスの郊外にある、生徒数が約4,000のマンモス高校だった。

若かりし教員時代のパトリック・ドーティ教授の写真

若い頃のパトリック・ドーティ教授

9月から始まる新年度に向けた新任教員オリエンテーションのために、8月下旬、私はその学校に到着した。その最初の会合で校長が私たち新任教員に強く勧めたのが「夕暮れ時には学校があるこの地区から離れること」だった。

校長の言葉は、決して冗談ではなかった。この(校長曰く)「置き去りにされた地区」ではストリートギャングがたむろしており、発砲事件もめずらしい事ではなく、私が着任する数日前にも学校近くの公園で流れ弾を受けた若い女性が亡くなったばかりだったのだ。当時、私はさほどこの警告を気に留めておらず、それよりも授業の準備に集中していた。多忙な数日の準備を経て、高校教師としての私のキャリアが始まった。

高校教師として初めての学期に、私は世界史と米国史を教えた。自分が大好きだった科目だ。私の仕事は、この科目を生徒に(少なくとも授業に耐えられる程度には)好きになってもらうことだった。授業の計画や学級管理、生徒の集中を途切れさせないような工夫を考えたりすることに追われ、疲れる毎日だったが、与えられた状況のなかで最大限の成果を出せているという手応えは感じていた。数週間が過ぎ、貧困に喘ぐ地域のこの学校で教壇に立つことを選んだ自分の選択に、自信をつけていった。

しかし、高校教員としてのキャリアを始めて3週目に、私は「挑戦状」を突きつけられ、決断を迫られることになる。

その日の放課後、私は画用紙を持ってくるため社会科の準備室に向かって歩いていた。

世界史の授業の中でエジプトの歴史についてのショートビデオ作成を課しており、生徒たちはグループに分かれてビデオに盛り込むトピックを考えているところだった。彼ら彼女らは後日、私が学校の図書館からかき集めた教科書や書籍を元に台本を作成することになっており、画用紙は生徒たちが絵コンテを組み立てるのに使うつもりだったのだ。モチベーションは高く、クラスの雰囲気もよかった。

学校に屋内の廊下はなく、ほとんどの教室が学外の道路に面しているような建て付けで、すべての部屋に陽の光が入るようになっていた。

銃声が聞こえたのは、私が表の通りに面した校舎脇を歩いていたときだった。

顔を上げると、30メートルほど離れたところから、白いジーンズと白いタンクトップを着た青年が私の方に向かって走ってきていた。すぐ後ろではシルバーの車が急ブレーキをかけて停まり、銃を持ったサングラス姿の男2人が、飛び出してきた。

タンクトップの青年は私に向かって走り、2人組の男たちはその青年を撃っているのだ。閃光と銃声。白いタンクトップとジーンズに滲んだ、鮮やかな赤。歩道に倒れている青年に目を取られた隙に、2人組の男は私の視界から姿を消した。救急車と警察車両の喧騒が続き、しばらくしてようやく、撃たれた青年が一命をとりとめたことを知った。そして、私は決断を迫られた。辞めるか、留まるか。

ストリートギャングによる蛮行の目撃者として私自身が今後、危険にさらされる恐れは学校側も認識していた。目撃者への脅迫は珍しいことではなかったし、私が学校に戻ることを不安に感じるかもしれないと心配していたのだ。今後のことを考え直すために、数日間の休みを取ってもよい、とまで言ってくれた。

私はその日、夜遅くまで両親と電話で話したのを憶えている。私はやはり、あの学校で、あの地区で、私の助けを必要としている(と少なくとも私が感じている)子どもたちに寄り添いたかったのだ。

翌朝、目覚まし時計が鳴ると、私は起きて、教壇に再びに戻った。世界史のクラスの生徒たちは、古代エジプト史に関するビデオの作成を楽しみにしている。若き学者たちを、失望させるわけにはいかなかったのだ。

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