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Faculty Voice Series Episode 3. 鈴木典比古 学長 Part 2

学生のみなさんが教室で見る教員の姿、そして、本学を目指す受験生が、パンフレットや著書から知る教員の姿は、ほんの一面でしかないのかもしれません。
そこで、Faculty Voice Seriesをスタートし、本学の教員の真の姿に迫るエッセイをリレー形式でお届けすることにしました。 専門分野や研究内容だけでなく、趣味、人生観、若き日の想い出など、様々な角度から語られるそれぞれの教員の人柄に、ぜひ触れてみてください。

Episode 3.は、前回に引き続き、鈴木典比古(すずき のりひこ)学長です。

Click here for the English version of the message from AIU’s president Norihiko SUZUKI.

鈴木典比古学長は、米国の大学で博士号を取得したのち、1978年より国内外の大学で教鞭を執り、2013年6月、本学の理事長・学長に就任しました。また、中央教育審議会大学分科会委員などを歴任しています。

「若き日の葛藤」というテーマで、3エピソードに渡ってお届けしています。

前回の記事は、こちらからご覧いただけます。

鈴木学長の写真

アメリカ大学留学体験記-偶然のチャンスをつかむ-

1973年9月、私は一橋大学大学院経営学博士課程1年の時に、アメリカのインディアナ大学経営大学院博士課程に留学し、1978年1月、国際経営学専攻で博士号を取得した。
日本では経済学を研究していたのだが、アメリカに留学して経営学に専攻を変えたのである。

博士論文のタイトルは「アメリカビジネス教育の国際移転-教育財のプロダクトライフサイクル-」というものであった。そこでは、ビジネス教育を「ビジネスの人材を生産する事業」として捉え、その先進国であるアメリカから、ビジネス教育財生産活動がどのようにして海外に移転していくかについて、移転モデルを作成した。そして、世界8カ国から、経営学部のある600大学を選んで、アンケートとインタビューを行い、モデルの実証を試みたのである(アンケートの回答を得られた大学は、200校あまりであったと記憶する)。

この論文の要約は、当時の「シカゴ・トリビューン」新聞の論文コンテストで優秀賞を獲得した。また、後日アメリカ国際経営学会の機関誌にも掲載された。

鈴木学長の大学時代の写真

大学時代の鈴木学長(右)

さて、その論文コンテストの受賞を祝ってくれた博士課程の同級生たちと、大学の在るブルーミントン市の下町の居酒屋で一杯やっている時であった。我々が大いに盛り上がっていると、背中合わせの隣のテーブルに座っていたアメリカ人の紳士が我々の後ろから声をかけてきた。

「後ろから声を掛けて失礼。君たちはインディアナ大学経営大学院の学生かね。」というのであった。そうだと答えると、「この中に日本人はいるかね」と聞いてくる。みんなは私を指さして「いる、いる、これがそうだ。ノリ(アメリカでの私のニックネーム)がシカゴ・トリビューンの論文コンテストで優秀賞をとったので皆で祝っているところだ」と答えた。

すると、その紳士がビールのコップをもって席を移してきて我々に加わった。その紳士は自己紹介をして、自分はワシントン州プルマン市にあるワシントン州立大学の経営学部長だと名乗った。その彼が私のことを根掘り葉掘り聞くのである。
博士論文は取得できそうか、いつ頃完成するか、テーマは何か、博士号を取ったら日本の大学に就職するのか、結婚しているか、そして、果てはアメリカで就職するとしたら都会に住みたいか、田舎に住みたいか・・・など。

最後に私の住所と電話番号を聞いて「今日はお酒の席だからこれまでにして、ノリ、明日また会えないかね」と聞くのであった。
私は同意した。私の同級生たちは「これはもうjob interview(就職面接)のようだ」というのであった。

その次の日、私は自分の研究室で彼にあった。彼の話は率直・具体的であった。それによると、当時の日米関係は日本側の膨大な貿易黒字で非常に緊迫していること、その打開策の一環として、日本政府はアメリカからの輸入拡大を図る一方、アメリカの10大学に総額一千万ドルの寄付を行うこと、ワシントン州立大学がその10大学の一つに選ばれたこと、しかし、ワシントン州立大学には、日本的経営や日米経済問題などを教える教員がおらず、関連科目が開講されていないこと、私以外にも幾人かの日本人学生と面接を予定していること・・・など。

私も正直に、他のアメリカの2つの大学との間で最終面接段階まで来ていることを話した。経営学部長は、最後に「参考のために」と言って、ワシントン州立大学での年俸はどのくらいか、プルマン市の平均住宅価格はどのくらいか、との情報を言ってくれた。
これらの情報を提供してくれるということはアメリカで就職する場合に話が最終段階にある事を意味するのである。

その後、1カ月ほどして私は経営学部長から面接のためにプルマンに来るようにとの招聘を受けた。
そしてプルマンを訪れ、経営学部教員や学部首脳との面接、私の研究論文発表、教員も加わっての夕食会、そして市街の住居地域や公園、学校、病院施設等の説明や見学、など2日間の緊張したスケジュールをこなした。

ワシントン州立大学の在るプルマン市は、2万人の大学生が住む小さな町である。周囲は小麦畑が連なり、緑豊かで落ち着いており、アイダホ大学があるアイダホ州からは、わずか10キロほどの場所だ。私はこのワシントン州立大学で、イリノイ大学に移るまでの5年間を過ごしたのであった。

続く

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